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「考える力」の必要性

news.yahoo.co.jp

教育とは

新明解国語辞典によると

一般的な知識や技能の習得、社会人としての人間形成などを目的として行われる訓練。

とあります。

ゆとり教育」は、前者から後者への移行でしたが、これからは両者の配分を、教員自ら「考える」ことが求められてきています。

考える力

人間は考える葦である、ともいわれます。しかし、人間にとって「考える」という行為は自然なものではありません。ほとんどの人が感情で動いています。「考える」というものが人間に元来そなわっているなら、そのための教育も必要ありません。しかし、一定レベル以上の知能をもった人間は、みな「考える」人間になるポテンシャルをもっています。決して有能な人間だけがもちうる能力ではありません。逆説的なことに、もともと優秀な人ほど、とくに考えなくてもなんとかなってしまうので、意外と「考える力」は高くありません。

考える必要がある人

じつは「考える力」とは、自力では劣るがなんとか自力で勝る強者に負けずに生き延びたい、という人たちが手にしうる武器とも考えられます。ところが、人間は依然として感情優位な生きものです。「考える力」はときとして、それまで平穏に暮らしていた人々を、競争社会へ送り出す起爆剤ともなります。はたして、義務教育レベルで「考える力」を習得し、強者に立ち向かわなければならないんでしょうか。別に「考える力」をつけなくても、ごくふつうに生きていける世界を構築するほうが、トータルとして幸福度は増すのではないでしょうか。

格差社会

今の世の中では、いわゆる「勝ち組」「負け組」のようなレッテル感が強くあります。しかし、皆が考える力をつけて勝ち組を目指すことが、はたして望ましいのでしょうか。考える力をつけた管理者階級と考える力をつけていない労働者階級がいて、両者が平和に生きていく世界というのは実現不可能なんでしょうか。考える力をつけて管理者階級になれる、もしくは管理者階級から労働者階級へ変わったからといって社会的に差別を受けるわけではない、という道すじだけちゃんと残しておけば十分じゃないでしょうか。